回想集No.8:相澤 紘史


BHN事業に参加して早や10年余り

BHN副理事長 相澤 紘史

学生時代以来これまでにアジアの多くの国を訪問し、ASEANではブルネイを除きすべての国を何度も訪れ、卒業論文のテーマも「アジアの経済発展と民族主義」とした私は、現役時代一度はアジア関係の仕事をしたかったのですが、仕事ではついに一度もアジアに関係することはできませんでした。
現役時代にBHNの名前は聞いていたものの、その活動内容は一切認識がなく過ごしていましたが、ちょうど退職の際に「アジアを中心に活動している。ホームページの英文訳を担当してほしい」との誘いを受け、それなら好きなアジアに関係できるし、週に一度程度の楽な「お仕事」と請け負ったのが始まりでした。

しかし始めて見ると、そんな「週一」では全く済まず、時には連日夜遅くまで、現役時代と変わらないハードな仕事に放り込まれるとは思いもよりませんでした。
そんなBHNの仕事の中で強く印象に残った、数年に亘る事業に関して思い出を記してみたいと思います。


まだBHNの仕事の概要もほとんどわからない、顔を出し始めて間もない頃、中米のハイチで大震災が発生し、10万人とも30万人ともいう人たちが亡くなったので支援準備という事になりました(実は未だに何人の人が亡くなったか、統計もなく分かっていません)。しかしさて、調べてみると現地の言語は「フランス語」または「クレオール語(アフリカの言語とフランス語の混じったもの)」、そんな言葉の分かる人材は探しても見つかるわけがありません。
そうこうしているうちに、ハイチはアメリカとの関係が深いため、現地で英語の分かる人を探せばいい、という事が分かり、言葉の問題は解決。
更に「人がいない」と、いやも応もなく、私がハイチ支援責任者とさせられ数日後、支援のパートナーとなった神戸市の「FMわいわい」から、突然「今夜世界コミュニティ放送連盟(AMARC)の支援会議をオンラインで開くことになったので出席するように」との連絡。

その夜10時から、イギリス(会長)、カナダ(事務局長)、神戸(FMワイワイ)、東京(相澤)の4者会議が始まりました。開口一番会長から「BHNは幾ら出せるか?」と。私はBHNの資金調達能力も分からず、それでも即断即決を求められ、まあこんなものかな?と思って「10万ドルを調達したい」(当時約1千万円)、「よし分かったそれで行こう」と会議は独り歩き。

幸いその後資金支援を申請したJPFからもほぼその金額が承認されることとなり、これがその後のAMARC(ハイチ支部)と連携して4年半に亘った事業のスタートでした。


ハイチ支援事業が、それなりに軌道に乗り出してから1年弱、「東日本大震災」が発生しました。この時点まではBHNもJPFも海外での緊急案件に対応することを基本方針としていましたが、未曽有の大災害ということから、これ以降、BHNもJPFも国内災害支援にも取り組むこととなりました。

実はこの震災発災日にBHNでは南スーダンからの研修医二人を受け入れてレクチャーしている最中でしたが、地震で宿泊するホテルに戻ることができなくなり、会議室の机をベッドにして二人とも一晩過ごしましたが、夜中テレビに流れる津波の様子を見て「こんな恐ろしい国にはいられない」と、翌日の航空機を予約してさっさと帰国してしまいました。


大災害が発生すると、多くの地方自治体(市・町)では既存のコミュニティ放送局を臨時に切り替えて、自治体が運用責任を持つ「臨時災害放送局」を設立しますが、既存の放送局がない場合には、自治体が自らこれを立ち上げることとなります。しかしこれまでに放送局運用の経験がない自治体にとっては様々な障壁があります。BHNでも放送設備の建設支援は出来ましたが、放送番組を作り、放送をするスタッフの養成にはFMワイワイに支援を頼みました。

また放送局には免許を持った無線技術責任者を配置することが求められます。これには東北地方在住のNTT/OBの方たちに就任していただきました。その他、現場の作業や官公庁との折衝等でも多くのOBの方々にお手伝いいただきました。しかし、このOBの方たちの中にも震災の被害を受けた方もおられ、それにもめげずボランティアとしてお手伝いいただいたことは未だに感謝にたえません。

 

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