回想録No.7:榑松 八平
BHN30周年によせて
BHN副理事長 榑松 八平
私とBHNの出会いは約20年前のマレーシアマルチメデイア大学(MMU)であった。当時私はMMUの客員教授としてマルチメヂア技術の講座を担当していた。MMU学内ではNTTから既に出向していた高橋謙三教授にお世話になった。高橋先生はBHNの人材育成(前期MMUでの実施)の企画および研修生の受け入れで、講義カリキュラムのみならず宿舎の手配など大学側との交渉で奮闘しておられた。BHNの研修担当であった黒澤泉氏、片岡正次郎氏が研修開講のためマレーシアに出張してこられた際、私の講義とも連携し、BHN研修生とMMU学生で講義室が溢れるばかりの盛況で講義したことを今でも思い出す。
マレーシアはマレー系、中国系、インド系の異なる民族から成り立つ国であり、文化と慣習の異なる方々との交流を進める上で、5つの「あ」という教訓に出会った。この精神が海外プロジェクトを上手く進める良き指針となっている。
2007年にNTTの無線の神様ともいわれ、富士通の多重無線でご指導いただいた桑原守二理事長(当時)のお誘いもあり、BHN活動に参加した。私も長年NTT並びに総務省の仕事に携わった経験から、BHNでの活動には違和感がなかった。信澤健夫会長(当時)から、BHNの国際協力活動は「恩返しとしての支援」であると教えられたことは今でも心に残っている。
私にとって恩返しの心;自分には何があるか?
無線通信技術、電波を中心とした人脈(特に総務省)、大学との交流と友人?と自問自答しながら、たどり着いた結論は1977年に当時の富士通の小林大佑社長(富士通無線の大先輩)の言葉「兎も角やってみよう」であった。これは富士通のチャレンジ精神や現場主義の象徴である。
英国駐在で得たノウハウ「Don’t Ever Give-up!」を生かし、通信を使った国際人道支援・人材育成プロジェクトをアジア中心に推進することにした。超高齢化社会に向けた医療ICT技術、スマート社会を支える無線通信技術は日本の各地で実施されている地域ICT利活用事業で成果を上げており、この事例のグローバル展開(特に医療ICT)に注目した。香川大学との連携した周産期医療システム(妊産婦・乳幼児の死亡率改善)プロジェクトは日本発の事業として世界に誇れる事例に成長してきている。
BHN並びにAPT人材育成プログラム等による支援事業に対し、佐藤征紀顧問からの心強い応援をいただき、2021年9月にAPTの活動を通じ途上国のICT分野の人材育成、及び我が国開発のICT関連システム/サービスの途上国への効果的な技術移転(主に遠隔医療、防災・減災分野)に精力的に取組んで来たことから、「SDGsに資するICT関連の人材育成に取組む等の功績」で日本ITU協会より特別功労賞をいただいた。この場を借りてご支援戴いた多くの皆々様に感謝申し上げます。
最後に不思議な縁に出会いました。BHNの最初の事業がチェルノブイリ原発事故の医療支援であったことは以前から認識していましたが、そこに使われたマイクロ波回線機器(11GHz/26GHz)がなんと私が富士通時代に装置設計に関係した無線機器であったことが最近になって判明し、BHNと私の間の不思議な縁を感じております。