回想集No.1:信澤 健夫

「思い出と期待と」

元会長(BHN顧問)信澤 健夫

「チェルノブイリ、ウクライナ」等との言葉が飛び交う日が続いている。それも厳しい話ばかりだ。BHNの誕生がウクライナ支援に始まったことを思うと胸が詰まる思いだ。


1996年8月、私が初めてチェルノブイリ近郊のコロステンにある被災者の施設を訪れて、関東病院や大坪さん(BHN顧問、東都大学理事長)からいただいた医薬品を届けたことを思い出した。若い少女たちの喉にある甲状腺手術の跡が痛々しかった。そして同じ年の10月、浅原さんや篠原さんが同じ施設に医薬品を届けに行かれて帰国した時、「お土産だよ」といって渡された小さな包みがある。開けると布製のかわいい顔人形だ。聞けば昨年いただいた医薬品のお礼に、少女のナターリアがありあわせの布切れを集めて工夫しながら作り上げた人形だと言う。嬉しかった。そのお礼のつもりでやったのが「クロスロード」の表紙の右上にその写真を飾ることだった。今は裏表紙の右下に小さく乗っているがそんなエピソードがあったことも忘れないで欲しい。彼女は今30歳半ば過ぎ、元気で生きていて欲しいと願っている。


私は今90歳を超え外出不能の身となってしまったが、BHNに関する情報はメルマガ、クロスロード、それと通信興業新聞に掲載されている会員のレポート等からいただいている。これらから改めて感じるのは、支援活動の対象を海外だけでなく国内での災害支援活動にまで広げたことと、人材育成活動の内容が質、量共に大きく広がってきていると言うことだろう。身の丈に合わせて着実に歩むことも忘れていないと思う。災害支援活動の範囲については、1995年に発生した阪神淡路大震災の時、支援活動を行うか議論したが、まだそれだけの体制がないし、設立の趣旨から見てもこの時は、将来の課題としてあきらめたことを思い出す。

2011年3月に発生した東日本大震災を機に体制もある程度整ったので、この際支援活動の範囲を広げて、震災の支援活動に取り組むことを決断した。この決断がきっかけとなってその後のBHNの活動の幅は大きく広がることになった。最近の活動報告によればNTT労組や地方自治体の協力も得ながら幅広く支援の輪を広げている。活動の主役がOBだけでなく若い世代の人々にまでひろがっているのも嬉しいことだ。

 


人材育成活動についてはまず嬉しかったのは、その幅も大きさも大きく広がったことだ。特に、私の後を継いだ桑原さんが私財をなげうって多額の寄付をしてくださったのが大きい。お陰で次の世代を担う若者を対象にした寄付講座の開設と海外からの留学生への資金援助を始められたという。嬉しいことだ。桑原さんには改めて御礼申し上げたい。

特色のあるBHNの自主プログラムについてはコロナのおかげで予定を大きく変えざるを得なかったのは残念だ。特にこのプログラム独特の理系、文系合同での全員合宿、前期、後期の2年間コース、ホームステーの経験等を実施できないのは残念だ。その代わりにオンラインの講義のおかげで子どもの世話をしながら受講できるとか、仕事と調整できるので便利だ、等オンライン方式によるメリットもあるようだ。コロナの災害は、まだしばらく続きそうなだけに新しいプログラムのやり方を考えてくださるのを期待している。

難しいかもしれないが、私には実施できなかった夢がある。

BHNの自主プログラムに参加している各国で研修生を選んでいる人事担当の役員クラスの人達を対象にした4-5日間のプログラムを作ることだ。1日は各国の人材育成の現状と問題点等を発表してもらう。その上で1日は日本の企業で人材育成を担当している役員クラスの方を何人かお呼びして、日本での現状と問題点などを語っていただき、できればNTTの担当役員にも参加してもらってフリーな討論を行う。そして1-2日は企業見学とNTTの施設見学等で終了する、と言うプログラムだ。一度考えてくださればありがたい。


最後に浅原さんがBHNの設立にあたって描いていたNGOとしてのBHNのあり方について書かれた文章の一部を紹介したい。ここに書かれた心がこれからも大事に引き継がれていくことを期待している。

「NGOはできるだけ多彩な才能の持ち主をそろえ、その人たちが自主性を発揮し、判断して、責任ある行動をとっていかねばならない。但しその判断が人間として、社会人としての良識を超えてはならない。また、非営利中立の立場のNGOとしての品格を守ることも忘れてはならないし、近頃言われる説明責任や道義的責任も免れることはできない。」

 

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