回想集No.2:桑原 守二

忘れえぬ人たち

元会長(BHN顧問)桑原 守二氏

BHNの30年が過ぎようとしている。この間に多くの方々と出逢い、別れたが、いつまでも心に遺る何人かが居られる。すべてを挙げられないが、故人となった3人だけ選んで述べたい。


1999年5月ウクライナ国立災害救急病院に
PHS端末機を贈呈 謝辞を述べる院長 筆者が隣に陪席 
聴衆は病院関係者と視察団員

 

最初は阿閉 弘士氏である。BHNが設立されて最初に、新宿御苑に近いノッポビルの8階あたりに居た頃、エレベータを出ると直接入り口があり、入った右に喫煙者コーナーがあった。もっとも多くの時間、この場所を占拠していたのが阿閉氏だった。そのためもあって割と早く肺がんで亡くなってしまったが、彼は外務省の人脈に滅法強かった。ランクの高い人から下のレベルまでコネがあって、たいていのことは話を通してくれた。

筆者の率いた視察団がどこの国でも大使の概況を伺う機会を得たのも、多くは彼の尽力による。シリアでは現大統領の父君(前大統領)が逝去された当日、戒厳令が敷かれていたのにかかわらず大使公邸に50名の団員を招待して頂き、夫人同伴で和食の饗応をして下さった。


2番目は山田 恭暉氏である。東大出身のエリートだと聞いたが、定かではない。主としてアフガニスタン問題を処理して下さった。風貌からも想像できたが、一度言いだしたら後に戻らない。彼に断定されないよう、話を進めるのに苦労が必要だった。もちろん、主張される話は当を得て、常に核心を突いていた。がんを患い、半年ほど休職したあと、一旦は復帰して頑張って下さっていたが、結局は再発して帰らぬ人となった。

山田氏についてもう少し詳細を語りたいと思い、筆者より早い時代から2015年まで庶務の仕事をして下さった福島文枝さんを探したが、残念ながら連絡がとれなかった。実は福島さん自身が筆者の忘れえぬ一人である。スタッフの方々すべてがいろいろとお世話になった。英語にも堪能で、女性であるにもかかわらず、と言ったら昨今は差別だと糾弾されそうだが、アフガニスタン北部の診療が行き届かない地域に一カ月以上、救援活動で出張して下さった。BHNを退職される前に母上を亡くされたように伺ったが、昨今はどう過ごされているのであろうか。


3人目は野村 正規氏である。現役時代に通信関係の仕事をされていた方が多い中で、NHKのOBという特異な経歴を持つ。東日本大震災の被害救済活動の際、BHNの支援で被災した各地にミニFM局を開設したが、機材の調達から放送番組の作成まで、指導して頂くのに彼の経験が役立った。総会では、音響機器の設置、音量調整など、同氏のお手の物である。東日本大震災後の計画停電中にはバッテリーからインバーターを通して100Vを供給し、職員の作業が中断するのを防いで下さった。マイクの試験をするためポンポンと叩くと、「高級な機械を壊さないで」と優しくたしなめた温厚な顔は、今でも記憶に鮮明である。

 

 

◀トップへ ◉  次へ▶

 

 

 

     

寄付をする