回想録No.4:篠原 浩一郎

プロジェクトファインディング

元事務局長・常務理事(BHN顧問) 篠原 浩一郎

国連機関WHOより「チェルノブイリ原発事故支援マイクロ回線建設」事業を受託完遂させた栗木さんの後任として事務局長となった私は、1996年WHOやITUに浅原理事長や信澤常務理事と赴いたが、国連機関から次のプロジェクトを引き出すのは、私にはとても無理と悟った。何とか新事業を見出すべく新米事務局長はアジアに目を向けることにした。


1997年 ミャンマー構内電話医療支援

 

ミャンマー(1997年):軍政下ながら、国際交流が始まった同国のヤンゴン・ジェネラルホスピタルは同国最大の病院(1500床)だが、構内電話(PBX)が壊れ広い敷地を看護師たちが連絡に走り回っていた。日本大使館草の根無償資金を得てPBXを交換、電話が復活したので病院関係者は大変喜んでくれた。数年後、設置に活躍した中野さんが落雷で壊れた設備を調べたところ160万円かかる部品交換が必要と分かった。故障修理に金は出せないと大使館に断られ資金を探していた折、医師たちが自腹で中国製PBXをわずか16万円で買えたとの報告を受けた。忍び寄る中国の影を感じた嫌な思い出だ。


1998年 ラオス 無線機設置

 

ラオス(1998年):JICAラオス所長から、ポリオワクチン接種の拠点となる600近くの診療所には全く電話も電気もないし道路も未発達、冷凍ワクチンなので事前連絡で子ども達に集まってもらう必要があるが、その連絡用にと無線機の設置を要望された。設置にはJICAシニアボランティアの祖父江さんという適任者がいるという。日本大使館草の根無償資金がすぐにOKされ、とんとん拍子に設置が進み、「BHNのラオス保健省への無線設置に携わるシニアボランティア」がJICA広報に載ったのは驚きだった。

ラオスは山岳国、大小沢山の川が流れているが、ほとんど橋がない。人が機材を担ぎ10時間歩くこともある。祖父江さん、後任の富保さんの筆舌に尽くせない努力によって素晴らしいプロジェクトに発展した。


2000年 マレーシア(サワラク)遠隔医療

 

マレーシア(2000年):日本大使館の片桐さんから、サワラク州の熱帯雨林奥に材木の切出し場が多々あり怪我する人が多いが、道路がなくボートで8時間かかるため、遠隔医をやってくれないかと打診があった。サラワクの医療に詳しい専門家がいないと返事をすると、この間までJICAのサラワク救急医療改善支援を担当した麻生医師を紹介された。同医師は会うなり、「お互いに絶対裏切らないという誓いを立てよう」という。ヤクザじゃあるまいしと片桐さんと顔を見合わせたが、真顔で言い張るので、盃を交わして誓いを立てることになってしまった。が、麻生医師が同州で築いた絶大な人脈のお陰と、横野さんや中川さんの協力もあり、事業は恙なく完了、日本大使や同州政府長官も臨席する100人以上が出席する大々的な引き渡し式となった。

このプロジェクトは継続されることになったが、途中、資金調達ができず事業が中断した時に、同医師から裏切るのかと誓いを盾になじられたことも懐かしい。


2002年 アフガニスタン難民安否電話サービス、
無線網構築、女子遠隔教育、日本大使館通信支援、医療無線網プロジェクト

 

アフガニスタン(2002年): タリバン政権崩壊後の2002年1月東京で開催されたアフガニスタン復興支援会議に同国政府一員として来日した現地NGO、CoAR代表と出合い、通信インフラがほぼ壊滅状態の同国への支援を開始した。先ず、難民安否電話サービスを皮切りに、復興の要となる現地NGO間無線網構築、女子遠隔教育や日本大使館通信支援を友田さん、福島さん、小宮さんに貢献頂いた。更に、JICA草の根技術協力事業のカンダハル州・バルフ州の医療無線網プロジェクトを中西さん・伊藤さん・山田さん、カブール市警察無線に金子さんと、他にも掲げきれない位大勢の方々の手で様々な情報通信の支援が展開できた。だが、これらを可能にしたのは、移動は防弾車・外出制限・禁止等が必要となる治安の悪化、夏は40°を優に超える暑さ・冬は雪の舞う厳しい自然環境、時には冷水シャワーしかない・冷暖房もない宿舎での寝泊まりを強いられる生活環境、こうした状況下でのボランティア各位の献身的現地ワークのお陰であり、誠に頭の下がる思いであった。

プロジェクトファインディングは資金を得ることも大変だったが、ボランティアの確保も大変である。ボランティアの皆さんには悪条件の中、誠心誠意プロジェクト完成に努力して頂いた。在任中、無理なお願いばかりしてきたが、事故がなくて幸いだったと感謝している。

 

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