東日本大震災から14年 私のあれこれ
2025年4月14日(月)13:13




BHN宮城事務所 山崎 信哉さんからの現地レポートをお届けします。
あの日、石巻市向陽町の自宅から近くのデイサービス施設で、月1回の歌のボランティア活動で休憩中だった。伴奏していたアップライトピアノが数十センチ動くほどの激しく大きな長い横揺れだったが、鉄骨・平屋建てのために、物的にも人的にも被害もなく、揺れが治まり、外へ出て驚いた。歩道の敷石がザクザク、アスファルトの車道は大きく波打ち、なんとか歩いて帰宅。
何ということか、御神楽構造の2階建ての我が家は、玄関の上の1㎡ほどのタイル壁は落ち、扉のフレームが歪み、家に入れない。大きく傷んだベランダに回り、掃出し窓をバールでこじ開けて入ると床は湾曲隆起してバランスを取れないほど、一人でいた妻は余震もありテーブルの下に蹲ったままでいた。
2階に上がると、作り付けの本棚からすべての物が落ちて床面が全く見えない状態。同じ団地でも地盤対策、構造の違いを見せつけられた。わが家はそれまでも1978年6月の宮城県沖地震の時も、地震の通り道の軟弱地帯で、液状化の大きな被害受けたが特段の対策は施しておらず、自然の力を受け入れるしかなかった。特に、仙台に車で通院していた娘とも連絡が取れず、3日後に帰宅した時は本当に安心した。
当時は町内会の福祉部長を務めていたこともあり、余震が続くなか避難場所のコミュニティーセンターに向かい、水道・電気供給停止の状況下、当番制のサポート体制の準備に入った。テレビ・ラジオ等での情報が得られないなか、人伝えに、妻の実家と自分が経営するアパートのある東松島市野蒜の被害が大きいと知り、翌日からその確認に動いた。大きく回り道してやっと辿り着いた光景に呆然。
海岸から400m、小高い山裾の妻の実家は津波で1階部分の鴨井まで浸水、家具物品は殆ど流失、冷蔵庫が台所への通り道に横転、前庭の石垣には近隣に数軒あった一つが流れ着き、グランドピアノも傍の野外に有った。当日親子で外出のため甥は運転席で義姉を待っている時、200m先の松の防潮林を超える津波を知ったが、あっという間に玄関の戸と壁を突き抜けて車は家の中に、偶然にもがれきに乗り上げ、天井すれすれで首から上が水面に出て助かったとのこと。義姉は施錠中に流され20日後に700m離れて遺体で発見され、安置所で遺品の外出着で確認できた。当時は一時土葬が多かったが、やっと山形の高畠町の施設を見つけ、ガソリンを求める長蛇の列を避け、関係書類を提示してパトカーの先導で20Lの給油を受けて荼毘に付すことができた。宮城県亘理町の自動車教習所での犠牲者の方もいた。
経営していたアパートは野蒜海岸から700m、旧JR野蒜駅近くで、鉄骨2階建ての2階壁半分まで浸水、1階壁、2階床部分まで破壊、鉄骨組みで、屋根と階段が残っているだけ、近くには背丈よりも大きな野蒜岩が幾つもあった。周りの民家数軒はアパート隣の新築1軒だけが残り流失した。住民は近くのホテルや中学校へ避難した方々を除き、数十人の犠牲があった。アパート住民は勤務先で一人犠牲者があったが他は全員避難して無事だった。アパートは一年後に取り壊し、残債は土地を東松島市に売却して、弁済した。この時期は精神的にも余裕がなく、後になってもっと他の対処法があったのではと思いめぐらすこともあったが、年齢的にも仕方なかったのかなと今は思っている。

鉄骨階段は損傷なし

南(海側)東方向から見た光景 二階窓中間まで浸水

南西方向から見た光景 2階のベランダが剥ぎ取られている

北西側から見た光景 窓だけでなく壁も破壊された

2025.4.6現在のアパート跡(農園)
写真:石垣 正一氏提供

被災した野蒜海岸一帯 上の線状はJR仙石線、
下の線状は東名運河、右下は太平洋 (グーグルマップより)
傾いた自宅は形こそ保っていたが、床は傾きとても住めない。
【動画1】
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壁と車庫のコンクリートの床が20㎝強分離し、玄関上のモルタルでつけたタイル張りの壁が剥がれ落ちた
【動画2】
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【動画3】
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居間から玄関に向けて、大きく傾き座敷の畳床もいろいろな方向に歪んでしまった。
損害判定は全壊、車上暮らし、仙台、富津、再び石巻と3カ月近くの避難生活を経て、2011年6月に石巻仮設大橋団地の仮設住宅に入居できた。
仮設団地暮らしは色々と課題が多く、10月に仮設大橋団地(最大1,150人、470世帯)を設立し、自治会長として国内外の様々な分野からの物心両面の支援の調整、行政始め関係機関・団体との調整、視察対応、また自主活動としての8月の夏祭り、10月の芋煮会、毎週月曜日はお茶っこ飲み会、水曜日はカラオケ会、日常は朝昼晩夜の4回,各30分程の巡回等々の活動、さらに石巻市内135カ所の仮設団地のそれぞれの課題や共通の課題解決のために、市役所・警察・消防・仮設診療所・(公社)みらいサポート石巻〔現(公社)3.11みらいサポート〕・(一社)日本カーシェアリング協会ほか関係団体・個人有志等と石巻仮設住宅自治連合会の定例会議を立ち上げ、第2代会長としての活動もあり毎日忙しく過ごした。
当時は75歳で、このような活動をしていたお蔭で頭や足の衰えも鈍化していたと思うが、今もなお67歳から始めたゴルフを月2回のラウンドのペースでこなせる基となっていると思っている。
自宅再建のつては、年齢的にも資金的にも自力では叶わず同じ場所に子供が建ててくれたが、パイプをしっかりと打って地盤対策をしていたので、その後の何回かの大きな地震にも被害はなかった。パイプを打たないベランダ部分は沈下・傾き等の被害があり、事前の備えをつくづく実感した。
地球の巨大なエネルギーを人間は絶対に制御できず、不可抗力な部分はあるにしても防災、減災は相当な部分で可能である。
今後予測される首都直下型地震・南海トラフ巨大地震・千島海溝・日本海溝の地震等々による倒壊・津波・土砂災害や異常気象による大水害等の防災・減災対策は必須である。
災害情報への深い関心、防災事例の理解を深め、過去の被害事例を伝承し、人々の避難意識向上と避難行動の定着を図ることが、命を守るうえでの肝心要であると思う。
山崎 信哉