インタビュー:吉岡 義博氏

子どもにも参加して欲しい。子どもも自分で植えて、さらにそこに植えた子の名前を書きたい。で、そしたら何年か経って樹が大きくなって、綺麗に咲いたときにこれは僕が植えた、私が植えた樹だよってなる。
  〜 インタビューより(「花桃の植樹」活動について) 〜

Q:最初に今までの経歴を教えてください

僕が初めて社会貢献的な活動をやり始めたのは、学生の頃、仙台の知的障害児の収容施設に定期的に、慰問に行って子供たちと遊ぶ活動を3~4年やっていたんです。
就職してからは、そういうボランティアをする余裕も全くなくて、平成の多分12年ぐらいじゃないかと思うんですけども、BNH幹部の桑原さんからBHNの話を聞いて「BHNっていう組織があるんだ。こんなことやってるんだ~。電気通信で社会のお役に立とうっていう組織なのか。素晴らしいな。」ってすぐに会員になったんです。で、リタイヤが近くなって時間に余裕が出来るようになって来たので、また桑原さんに「私、時間の余裕が出来ますんで、また下働きさせて下さい。」って言ったんです。チャリティーコンサートのチケットが売れなくて困って居るというので、「そんなの俺売ってやるよ」って。企業先行っては「頼むよ。社員の福利厚生で10枚頼む。」とか「20枚頼む」とか、結局170枚くらい売ったかな。そいうことを1年間程やっていたら、東日本大震災の支援活動先の飯舘村の担当が亡くなられて、そのお通夜の席で当時の藤田理事長に、「飯舘村どうするんですか?飯舘の事業俺にやらせてくださいよ。」と頼んだんですよ。
プロマネをやるは良いけど金は無いからね」と言われて。何のプロジェクトもやったことないし分からないから、事務局のスタッフに「こんな状態で申請しますから宜しくお願いします。」なんて言うと中身も親切に助言してくれて「いやいや、ここはダメダメ、こういう風にしたら通りますよ」「じゃ~文章書き換えますよ」ってなって、そんなことで助成申請が通って5年間支援してもらっています。

結果的に6年(前任者がその前に2年)通算すると8年。でも現地に行くと頻繁に行くわけではないのに、ちゃんと顔を覚えていてくれてね。「来てくれたの!有難う」って迎えてくれてね。村の役場には何カ所も課長がキーパーソンで居るんで、知り合いの課長が人事異動したら、また上手いこと次の管轄の課に移動してくれたんで、また宜しくっていうことになり。で、ずっと続いている感じです。そんなことでここまで来ました。

(北海道の話をお聞きしたいです。なぜ北海道を任されることに成ったのですか?)
北海道は去年の9月6日に地震が起きたんですが、もしかしたらBHNでも出動する場面が有るかも知れないなと思っていて。北海道地震発生後5日から1週間くらい経ってから会議が招集され、「あ、来たな」って思ったわけ。「じゃあ、とりあえず体制は決めとこうか」ということとなったら、会議参加者が皆私の方を見て「吉岡さんだよね」と、こう言うんですよ。「いやいや、私はちょっと今忙しくて。」と言ったんだけど、国内担当は二人しか居ないし、「あ~暇だから俺んとこに来たんだ。」って思ってね。ということで、「じゃ~引き受けましょ」となりました。
1週間もかからなかったんじゃないかな。4~5日でバァーっと申請書作り上げて、コミュニティー活動を、支援するためのパソコンの指導者を育てる教室のスタートを掛けその後、我々が継続してやりますといって申請出したら上手いこと通って。それで40日の間に確かに1回目の勉強会を7カ所で出来たんだけど、終わりかけの時にJPFが「期間延長します」と言ってくれたので、それじゃ我々も2カ月半やりますって2月末まで、一応形にすることが出来たんです。

(開催してみて参加者がPCの扱いを上手に出来て、喜んでたりする姿が目に見えたり支援活動の成果がありましたか?)
まだ期間短いのに個人的な繋がりが出来たんですよ。この間、所長とかね、スタッフの人が震災で壊れた家の場所を案内してくれて。家は更地になっちゃったけど、今は仮設にいながら畑を整備したり、綺麗に花の世話をしたり。「案内してやるか」って言ってくれて。そういう個人的なコミュニケーションによって繋がりが出来ているんだよね。そういうところが一番のやりがいだと思います。
今は花桃の植樹というのは飯舘村のメイン活動のいくつかの柱の一つになっていて・・・。かなり早い頃【情報通信】の次にやったのが【健康】っていうテーマの中で、お医者さんと一緒に「健康相談会」や「マッサージ会」、「万歩計を配っての歩け歩け会」をやりました。その中のマッサージの先生が震災で、ふるさとが大変なことに成ったという事で職を投げうって福島に戻って、役場の人たちと無償でマッサージをやっていたんです。で、たまたま現地で「吉岡さん話あるんだけど、私ね、隣町の近くに飯野町ってあって、花桃の里っていうのが有る綺麗な町があるんですよ。飯舘町も昔は綺麗だったのに、今は除染廃棄物が積まれて見る影もない。昔の景色を取り戻したいんで、花桃の植樹を出来ませんか?」って言われたわけ。それで飯舘に行くたびに「花桃の植樹ってどうでしょうね?」って話を何人かにしていたんです。そしたらある自治会で「良いですね!すぐに会長に話をしましょうよ」って言ってくれて。えらい急展開なんだよ。
僕の思いとしてはね、子どもにも参加して欲しい。子どもも自分で植えて、さらにそこに植えた子の名前を書きたい。で、そしたら何年か経って樹が大きくなって、綺麗に咲いたときにこれは僕が植えた、私が植え樹だよってなるのは、郷土愛としては素晴らしいじゃないですか。ってそんな気持ちを話したら「じゃ~もう自治会を挙げて応援するよ」って言ってくれて。3カ年計画でやるには村長さんのアポをとって3カ年計画ですって説明しに行った。
去年の夏の記念植樹、秋の本番もあり、全部生涯学習課が仕切って広報にも出してくれて、60人で花桃の植樹も2年目を迎えることが出来たんです。で、今年の秋が3年目。最終になるけど、これももう場所も決まっていて。

(吉岡さんにとっても思い出深い場所になりましたね。)
飯舘村ってしみついちゃったからね。でも、僕以上に現地で活動している人は8年間毎月通っているわけですからね。彼らはよりそう思うでしょうね。
僕らもいずれ撤退するわけじゃないですか。でも花桃ってね、これは5年経っても10年経っても村民の目を楽しませるわけじゃないですか。パソコンは壊れちゃったり古くなったりするんですけど、植物はず~っと残るからね。

Q.ご趣味の話を

(8年前からクラシックギターをされているということで、有名な曲『アルハンブラの思い出』『禁じられた遊び』とかを演奏されるのですか?)
あのね、間違ってもらっちゃ困ります。『アルハンブラの思い出』なんてプロしか引けない曲ですよ。トレモロでしょ。ポロロロロロロロロ~♪自分でも弾いてみるんですよ。楽譜見て。でも、トレモロらしく聞こえるスピードに上がらない。
『禁じられた遊び』も前半は良いんだけど、後半はメチャメチャ難しくなる。極端に難しくなるんだよね。前半だけ弾いて、はい以上です!って言えば格好付けはできるんだけど、後半は弾けない。ギター始めた時に先生に「先生ギター初めて何年くらいで『禁じられた遊び』は弾けますかね?」って聞いたら、「一生懸命やって3年だね」「アルハンブラは?」「そーだね。10年かな」だって。僕8年やってるけど、まだ『禁じられた遊び』は弾けません(笑)
発表会は年に一回。それと合わせて秋に合奏フェスティバルというのが有るんです。今グループでレッスン受けてるんで、ソロの曲もやるけど合奏曲もやるんです。もう5年くらい前から合奏曲もソロの曲も練習してて秋にはグループレッスンじゃない他の教室の先生生徒も集まって、ギター連盟が主催した合奏フェスティバルが有るんです。40組くらい出るのかな。僕らは14~5名で毎年出て行って、今その曲も併せて練習してる。
大体、月1遍くらい土曜か日曜か時間を決めて練習するんだけどね、吉祥寺に来やすい人が数人いてね、ある時一緒に飲み会で定例会にしませんかって話になって。名前がついてまして『KGG』っていうんですけど、『吉祥寺ギター&グルメ ― K.G.G.』っていってるんです。
ギターを弾いたりその後グルメも!っていう事でスタートしてもう何年も経つんですけど、最近は『吉祥寺グルメ&(ギター)』っていってギターそっちのけでただ飲んでるだけっていう(笑)
年齢的にね40歳から78歳までいるんです。もちろん職種もみんな違うし、リタイヤ組も居たり現役で仕事している人、主婦の人も居たり。話題も様々だし、違う世界の交流があって面白い会があるんですよ。良いレストラン見つけたんで今度行きましょうよとか盛り上がるんです。

(毎日健康法でストレッチされているんですか。)
もともと腰が痛いからね、やむを得ずやってる。
学生、中学の時にバスケットやって、中学2年でブラスバンドに変わってトロンボーンやったり、大学行ってから自己流でフルートやったり。大学でバレーボールの同好会やったり、だからスポーツ大好き体動かすの大好きだったね。
でも腰痛持ちなんで腰痛にならないように朝起きたらやって
お相撲さんの股割みたいなことやるんだけど、いきなりやると痛いからだけど、だんだんにやると最後には開脚でひじついて新聞読めるくらいまで柔らかくなる。

(映画がお好きという事で、「サウンドオブミュージック」が最高に好きなんですね。)
ジュリーアンドリュース好きで好きが高じてザルツブルグに3回くらい行ってる。これが映画のあの場面の公園だとか、山の丘の上にオウエンザルツブルク城っていうのがあって、あのお城だねとか。で、あそこのお城の中でコンサート有るんですよ。ツアーで行った時に日本で「ウィーンでもザルツブルクでも良いので、コンサート聞きたいから予約してください。」ってお願いしたら「添乗員に言ってください」って言われ。ザルツブルクに入る直前にバスの中で「吉岡さんコンサート行きたいという話聞いていますけど、候補が2つあります。一つはドレスコードが決まっていて値段は3万円です。もう一つは、気軽な服装で値段が3,000円です。でも両方ともお城の中でやります。」というので、ドレスコードのある方にしたいのですけども、たまたま持って来ていないので、3,000円の方にします。」って言ったら、一緒のツアー客の人たちも、そんなの有るなら私も参加します、私も参加しますと申し込んで、結局全員で。バスを用意してもらい送り迎えもして貰って。
その日は【ザルツブルク音楽祭】の初日だったんだです。だからそこらじゅうで音楽会が催されていて、世界中から勉強しに来ている音楽家たちが集まって、モーツアルト中心に日が暮れていく中で演奏が行われ、終わると街の明かりが煌々とってね。
タイミング良かった。何も知らずに頼んだけど思いがけず。サウンドオブミュージックの話からね(笑)

Q.ご出身は?

生まれは山梨県の春日井村(今は春日井町)の笛吹市、石和温泉、甲府の東京より駅3つくらい。僕が生まれて2歳くらいの時に甲府に家を建ててずっと甲府にいたんですが、学生時代に仙台に行っちゃった。で仙台で嫁さん見つけて帰ってきたという。

(仙台は学生時代過ごすのにもとても良い場所ですよね。)
6年間大学院までいて。物凄く学生を大事にしてくれる場所でしたね。時代も時代だけども、学生も結構破天荒なところを許してくれる感じがありましたね。春になると桜の名所で新入生歓迎会では飲むし。その後東京に就職で出て来て、電電公社に入るんだけど。
就職の面接では、「趣味の欄に茶道が有るけど、こんなのして何が面白いんですか?」って聞かれたんで、ムカッとして、4年間通って初伝までいただいてたんで、「茶道につきましては」って真顔になりまして。で、「そもそも茶道とは。」と真髄を5分間くらいとうとうと語ったんですよ。で、あ~駄目だ~もう落ちたからいいや~って、終わって山梨の実家に帰って他の就職先をさがそうと思っていて1週間しても結果が来なかったんで、諦めてたところ2~3週間して、「おい、吉岡受かったぞ。」って先生から連絡が合って、僕の人生ラッキーの連続ですよ。大学入る時だって山勘が当たってだし、会社入る時も、あとNTTからドコモに行く時だって現BHNの桑原会長さんに会ったからだし。その3つのラッキーで今がある感じです。で、今BHNに入って恩返しなんです。

吉岡さん有難うございました。とても面白い話から支援事業の経緯のお話まで、いろいろ聞けました。
今後のご活躍にも注目していきたいと思います。

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